また「アリス」の絵を描いてみよう。
そう思って、参考にと昔の「別冊 現代詩手帖」ルイス・キャロル特集号を書棚から出してきたら、ギルバート・キース・チェスタートンの評論「ノンセンスの擁護」に読み耽ってしまい、絵はちっとも進まなくなってしまいました。
「別冊 現代詩手帖」ルイス・キャロル特集号は、1970年代の「不思議の国のアリス」再評価のムーブメントの中心となった1冊。
むかし読んだときはよくわからなかったけれど、そこに収められた「ノンセンスの擁護」のチェスタートンの文章力があまりにもすごすぎて、すっかり幻惑されてしまったのです。
われらの住まうこの薄明の世界をいかに受けとるべきか。これには永遠に拮抗する二つの見方があろう。
つまり、夕暮の薄明と見るか、朝まだきの薄明と見るかだ。
…(中略)…
「人間とは、あらゆる時代の末端の相続人」なり、と思い知るのが人間のためになることは、大方の認めるところだ。
それほど一般受けはしないけれど、劣らず重要なのは、こう思い知ることだ。
---人間とは先祖、それもあらゆる時代を遡った始源の昔に位置する先祖なり、と。
これまた人間にとって良い薬である。
もしかしたら自分は英雄ではないのかと思いを馳せ、ひょっとしたら自分は太陽神話ではないのかといぶかって心高まる思いを味わう、人間たるものそうあってしかるべきであろう。
このおそるべき文体によく似た何かを、他にもどこかで読んだことがあるような気がする。
そう思って記憶をたどってみて、初期の柳田國男のつぎのような文章に思い当たりました。
小生は以前苅田嶽に登りて天道の威力に戦慄し、鵜戸の神窟に詣でて海童の宮近しと感じ、木曾の檜原の風の音を聞きて、昔岩角に馬蹄を轟かせて狩をせしは自分なりしように思い候ひし、あの折の心持ちを成るべく甦らせて昔のことを攻究致し候ひしかば、…(中略)…猶不可測に対する畏怖と悃情とを抱くことを得候ひき。
名著「遠野物語」と同じ明治43年に上梓された、黎明期の日本民俗学の重要な文献「石神問答」の中の一節です。
たしかに、ここには「ひょっとしたら自分は太陽神話ではないのか」という思いにとらわれた一人の詩人の昂揚するたましいがありました。
現在も読み継がれる推理小説「ブラウン神父」シリーズの作者でもあり、英国保守思想のイデオローグとしても知られるG.K.チェスタートンと、わが柳田國男とは1歳違いの同時代人。
その影響関係のことについて誰かが言及していたはず、と思って検索してみたのですがすぐにはそれらしいコンテンツが見つからず、そのかわり自分が昔綴った文章が出てきてしまいました。
【薬箱手帖】 クマグスとキンクス
https://timeandlove.seesaa.net/article/200904article_1.html
この中で、ぼくは次のようなチェスタートンの一節を引用しています。
民主主義、民主主義と言うが、生きている人だけが票で決めるのである。 これは仕方ないかもしれないが、我々は、我々の先祖という死者を抱えている。 死者の意見もやはり聞かなくてはならない
チェスタートンの名著「正統とは何か」の核心となる、「死者の民主主義」の思想。
伝統とは、あらゆる階級のうち最も陽の目を見ぬ階級に、つまり我らが祖先に、投票権を与えることを意味する。
死者の民主主義なのだ。
単にたまたま今生きて動いてるというだけで、今の人間が投票権を独占するなどというのは、生者の傲慢な寡頭政治以外の何ものでもない。
伝統はこれに屈服することを許さない。
これとぴったり重なり合う提言が、やはり若き日の柳田國男が農商務省のエリート官僚として記述した「時代ト農政」という著作に見られることにひどく興味をおぼえて、ずっと前にもこの二人のつながりについて考えてみたことがあったのを思い出しました。
国家ハ現在生活スル国民ノミヲ以テ構成ストハ云ヒ難シ、死シ去リタル我々ノ祖先モ国民ナリ、其希望モ容レサルヘカラス、国家ハ永遠ノモノナレハ、将来生レ出ツヘキ我々ノ子孫モ国民ナリ、其利益モ保護セサルヘカラス。
陳腐で凡庸で過酷で抑圧的な民主主義が支配するこの世界において、祖先を国家共同体の構成員としてカウントしてみせるという反近代的考察。
まるで華麗な反則技のようにすばらしいこのアイディアが二人に共通して見られるのは、影響関係というよりはむしろシンクロニシティではないかと思われます。
それは保守主義というカテゴライズでとらえるよりもむしろ、気が遠くなりそうなくらい壮大なロマンティシズムと受けとめるべき心性なのかもしれません。
バーナード・ショーやH・G・ウェルズらの進歩主義と敵対したチェスタートン。
田山花袋や島崎藤村の自然主義と袂を袂を分かった柳田國男。
そしてそれよりもさらに興味深いのは、この思想の上に立つチェスタートンがその価値を見いだして擁護を宣言してみせたのがエドワード・リアの詩やルイス・キャロルの童話といったノンセンス文学であり、柳田國男が「願はくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と宣言して格調高く書き綴ったのが顧みられることなく忘れ去られようとしていた民間伝承の世界の叙述であったということ。
「遠野物語」とは、明治末年の日本で、類いまれな知性と感性を抱えて歌に別れを告げたばかりの抒情詩人が出会ったアリスの不思議の国の物語だったのかもしれない。
もしくは、アリスという少女は英国ヴィクトリア朝の論理学者の目の前にあらわれた一人の座敷童子であったのかもしれません。
悪気はないのだが、ものごとの論理的側面を研究しただけで「信仰なんてノンセンスだ」と断言した人がいる。
自分がどんなに深い真実を語ったか、御本人は御存知ないのだ。
まあ、時いたれば、同じ言葉がひとひねりされて、彼の脳裏に甦るかもしれぬ
---ノンセンスとは、信仰だ、と。
2010年6月14日は、「遠野物語」はわずか350部の自費出版で刊行されてからちょうど100年の日。
偶然ですが、この日はギルバート・キース・チェスタートンの祥月命日でもありました。