2010年6月、柳田國男の最も有名な著書「遠野物語」が刊行されてからちょうど100年。
明治43年6月、自費出版でわずか350部ほどが刷られたというこのささやかな東北の小都市の説話集が、柳田國男という近代日本を代表する知の巨人の原点となり、日本民俗学はもとより、この1世紀にわたって思想・文学の世界にどれほどの影響をおよぼしたことか。
そしてぼく個人も、もしこの一冊との出会いがなかったら、などということがもう想像することさえできそうにありません。
「遠野物語」についてはもう10年以上前、すでにフリーペーパー文化誌「献血劇場」誌上に連載していた「雨の日の女」で取り上げたことがありました。
「雨の日の女」その29 柳田國男「遠野物語」
http://www5a.biglobe.ne.jp/~kenketsu/rainyday_29.html
そのときも触れたように、ぼくにとって最初の「遠野物語」との出会いはたしか学校の国語の教科書で、次の一話だったと記憶しています。
小国(をぐに)の三浦某といふは村一の金持なり。
今より二、三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍(ろどん)なりき。
この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿ひて蕗(ふき)を採りに入りしに、よき物少なければしだいに谷奥深く登りたり。
さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。
いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くをり、馬舎ありて馬多くをれども、いつかうに人はをらず。つひに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀(ぜんわん)をあまた取り出したり。
奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。
されどもつひに人影なければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。
この事を人に語れども実(まこと)と思ふ者もなかりしが、またある日わが家のカドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。
あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。
しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。
家の者もこれを怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。
この家はこれより幸福に向かひ、つひに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガといふ。
マヨヒガに行き当たりたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。
女が無慾にて何物をも盗み来ざりしがゆゑに、この椀みづから流れて来たりしなるべしといへり。
ここに描写されている光景が、子供心に何故か異様に印象に残ってしまったこと。
それがすべてのはじまりだったのですが、同じ頃、また別の本で読んだ一節がどこかこれと通じるような気がして、記憶に刻みこまれています。
故、避追はえて、出雲国の肥上河上なる鳥髪の地に降りましき。此の時に、箸其の河より流れ下りき。
ここに、須佐之男命、其の河上に人有りと以為して、尋ね覓ぎ上り往かししかば、老夫と老女と二人在りて、童女を中に置ゑて泣くなり。
爾、「汝等は誰そ。」と問ひ賜へば、其老夫答へて言しけらく、「僕は国神大山上津見神の子なり。僕の名は足上名椎と謂し、妻の名は手上名椎と謂し、女の名は櫛名田比売と謂す。」と、まをしき。

「古事記」上巻、八岐大蛇退治の序章です。
天津罪を負って高天原を追放された須佐之男命。
とりかえしのつかない喪失感を抱えてたたずむ川辺に流れてきた箸。
上には人がいる、という圧倒的な孤独の中の一縷の希望。
分け入った山の中で出会った老夫婦と少女。
数ある名場面に彩られた日本神話のなかでも、思い返すたびに心の襞に深く深くしみこんでくるような気がしてしまうこの情景を、ぼくは偏愛せずにいられません。
そしてそんな感覚が、「遠野物語」のマヨヒガを読んだ時のそれと重なり合うような気がする。
それはまた、歌の別れを決意し自然主義の勃興する中央文壇から放逐され、辺境の地に息づいていた物語に出会って「其の河上に人有り」と感じたままにこの書を綴った柳田國男、かつての抒情詩人松岡國男その人の姿が須佐之男命に連なる「流され王」の系譜に重なるということかもしれません。
ようするに、ぼくにとっての「遠野物語」は近代日本文学が生んだ「神話」だったのです。
年表をひもとくと、1910年は日韓併合の年。そして「遠野物語」が出版された6月は、大逆事件で幸徳秋水らが検挙された月。
そんな政治と社会の情勢の中で、その序文で「要するにこの書は現在の事実なり」 と宣言した「遠野物語」という神話。
そしてもうひとつ、1910年と聞いて思い起こされるのは、地球がハレー彗星の尾の中を通過するということで、世界の終末までが取り沙汰されたというおはなしです。
76年周期で太陽をめぐるハレー彗星が次に観測された1986年、中学生だったぼくも夜ごと望遠鏡をのぞいてその光芒をながめたものでしたが、そのころには前回のハレー彗星騒動を記憶しているという老人も多く存命していました。
それから、太陽系の彼方へ去ったハレー彗星がさらにその軌道を3分の1めぐったはずの今、あのときの老人たちもほとんどはもうこの世にいないはず。
「神話」との距離を測るのはむずかしい。それで「遠野物語」刊行から100年ということを考えてみても、その時間のパースペクティヴは奇妙に歪んだものに見えてしまいます。
最近、「21世紀になってみると柳田はあまりにも官僚臭が」云々という批判のような言説を目にしました。
けれどそれはむしろ官僚・体制・国家といったものにアレルギーを示す20世紀後半の一時期に特殊な反応ではないでしょうか?
100年目の今、むずかしいことかもしれないけれど、様々なコンテクストの中で多義的な解釈に耐えうるテクスト、神話としての「遠野物語」との距離をもう一度測り直してみたい。
そのためには、まずぼくらの立ち位置そのものを見つめ直すことから始めなければいけないような気がしています。