神無月・神在月と出雲大社のおみやげの鈴
10月のある日、たまたま島根県へ旅行に出たという方に、「今月は神無月、全国の神さまが杵築の出雲大社に集まる月だから、ぜひ出雲大社にお参りしてみて」とおすすめしたところ、さっそく赴かれて、「出雲大社はすごくいいパワースポットだった」と喜ばれ、わが家にもおみやげにお守りの「しあわせの鈴」を買ってきていただきました。
この方は、「日本瞥見記」の中で「出雲は、わけても神々の国である」と記したラフカディオ・ハーンの資料を展示・公開している松江の小泉八雲記念館にも立ち寄られたとのこと。
「因幡の白うさぎ」などの絵本を愛読した子供のころから出雲神話に親しんできたぼくにとっても、出雲はまさしく神々の国。
この夏はじめて参拝することができた伊勢神宮に次いで、出雲大社はぜひともいつかはお参りしてみたいと願っている神社の筆頭なので、思いがけずそのおみやげに「幸魂・奇魂・守給・幸給」と記された鈴をいただき御神徳にあやかることができて、望外の喜びでした。
ほんとうは出雲大社で「神在祭」が行われるのは太陰暦の10月11日から17日にかけて。今年・平成21年で言えば太陽暦の11月27日から12月3日まで。厳密に言えば出雲の国が「神在月」となるのはもう少し先のことでした。
しかし、そもそも「神無月」という言葉の由来は明らかではなく諸説あるようで、いずれにしても「神無」の字は宛て字であろうとされています。
10月には国津神が出雲の国に集う、という言い習わしも、古典にあとづけることのできない俗説にすぎないのかもしれません。
けれど、柳田國男先生の言うように「人間のすることにはたとえ仮令気狂でも動機があるべきだ」とするならば、この民俗に根ざした「神無月」の信仰にも何かしらのよりどころがあるにちがいありません。
折口信夫博士は、10月を「上の月」=「神無月」、11月を「下の月」=「霜月」と説いていて、それも語源の考察としてはちょっと魅力的な説ですが、不勉強ながらいまのところ、ぼくとしては伊勢神宮で神嘗祭が行われる陰暦9月から11月の新嘗祭までの間、新穀は神さまの御饌としてお供えされる月、「神嘗月」の転訛でできた言葉が「神無月」、神々が不在になるという印象はその物忌みからきているような気がしています。
出雲大社の「しあわせの鈴」を包んだ白い袋には、皇后陛下が平成15年の10月に詠まれたという御歌が印刷されていました。
出雲大社に詣でて
国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず
神代の豊穣な物語。
古代における大和朝廷への服属。
中世には16丈の巨大建築だったという社殿。
そして近世に広く民衆の想像力を掻き立てた神無月の神集い。
出雲大社とその神話世界への興味は、尽きることがありません。